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2011年03月10日木曜日

諸葛亮孔明の出師の表について

 「古来から名文中の名文とされている」とあり、学んでみたいと思いました。

 調べてみると、「『諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠』(『箋解古文眞寶(せんかいこぶんしんぽう)』の安子順の発言部分)と言われてきたほど、諸葛亮の蜀に対する忠義が如実にあられている」という文章にも出会いました。
 
 出師の表とは、建興5年(227年)、諸葛亮が主君の劉禅に奉った上奏文のことで、一般に「出師表」と言えばこの文章を指しますが、「後出師表」と区別するために、「前出師表」と呼ばれることもあるとのこと。自分を登用してくれた先帝劉備に対する恩義を述べ、あわせて若き皇帝である劉禅を我が子のように諭し、自らの報恩の決意を述べた文のようです。

 後出師表は、孔明が先帝である劉備から、逆賊である魏を討伐するようにと言われてきたことを確認し、魏の力があまりに強大で、自分の力はあまりにも弱く、このままでは蜀は魏に滅ぼされるであろうとし、坐して滅亡を待つよりは、先手を取って魏を討滅すべきであると述べているとのこと。そして、その中で、良からぬ輩が、自分の北伐を批判していると述べているとあり、諸葛亮孔明ほどの人にも批判があったのかと驚きました。

 批判に対して、孔明は、6つの疑問点をあげてその批判の不当さを指摘しているようですが、その6つの中の以下の3つが心に残りました。
 「曹操は優れた軍略家であるが、それでも身を危ういところにおいて戦ってきた。自分のような小人物はなおさら、危ういところに身を置かないでどうするのか。」
 「曹操のような人物ですら、敗戦を繰り返しているのだから、自分のような小人物が戦いに負けたことをあれこれ言うのはどうか。」
 「数年後には、あちこちから集めてきた優秀な武将や兵たちが死んでしまうのに、優秀な者達がいる今のうちに戦わないのはどうしてか。」

 後出師表は、建興6年(228年)に、諸葛亮が劉禅に再び「出師表」を上奏したものとされており、先の「出師表」と区別して「後出師表」と呼ばれているが、この文章は『三国志』の本文では言及されず、裴松之(はい しょうし、372年~451年、中国の東晋末・宋初の政治家・歴史家)の注釈の中で、習鑿歯(しゅう さくし、生没年不詳、東晋の人。『襄陽耆旧記』(『襄陽記』)などの著者)の『漢晋春秋』から引用され、さらに陳寿(ちん じゅ、建興11年(233年)~元康7年(297年)、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。俗説では、蜀漢の将であった陳式の末裔と言われているが根拠は無い。『三国志』の著者)の編纂した『諸葛亮集』にも見えず、呉の張儼(ちょうげん)『黙記』に見えると書かれているとのこと。
 こうしたことから後世の偽作とする見方が有力であるようですが、後世の人の心を揺さぶり、追加して書かせたくなるような鮮烈な生き方を、諸葛亮孔明がしていたという証拠ではないかと思いました。大情熱の人の生き方に敬意とあこがれを覚えます。

wrote by m-hamada : 2011年03月10日 21:13