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2013年01月09日水曜日

浜田まさとし通信(浜田まさとし励ます会発行)第1号より

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浜田まさとし突撃インタビュー
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大島小学校の卒業ですが、どんな子供でしたか?
 大島小学校での6年間は思い出深いですね。
 元気いっぱいな先生がいて、ラジオ体操の時にウルトラマンのまねが入り、みんなで笑ったことを覚えています。熱心な音楽の先生のお話や体育でドッジボールをしたこと、苦手な社会の授業でほめられて恥ずかしかったことなど、今でも時折思い出します。
 熱中するタイプの子どもだったと思います。家が浜町商店街で食堂をしていたのですが、毎日のように夜9時頃になると店の片づけを手伝い、 両親をせかしてはトランプや将棋をしてもらいました。

臨港中学校の思い出は?
 授業の半分が精神論で、生徒にやたらと気合いを入れる先生がいました。強烈な個性の先生で、大きな触発を受けました。また、国語の先生も落語研究会出身の個性的な方で、授業の脱線話が面白かったことを覚えています。
 バスケットボール部に入っていました。なかなか勝てなかったので、初勝利の試合をよーく覚えています。みんなでワッと歓声を上げました。
 同級生には元気があり余っているような人が多かったと思います。

高校では野球をやっていたそうですが?
 ハイ! 高校生活の半分は野球でした。
 ほとんど休みナシで、激しくキツイ練習の毎日でした。炎天下でのダッシュ、雨の日の階段上り下り、冬のランニング、今でもなつかしい映像が頭によみがえって来ます。
 公式戦で、前年度に全国優勝した横浜高校と対戦した事がありました。結果はコールド負けでしたが、最後の回に甲子園の優勝投手が登板してきて、運良く私も対決できました。ストレートの連投でファウルでねばったというか、かろうじてファウルにしていたのですが、 最後にカーブを投げられて三振。ベンチに帰った時に、冗談が上手い同級生から「甲子園の優勝投手がカーブを投げるのはずるいよな」と言われ、笑ってしまったのを覚えています。
 高校の3年間は何ものにも代えられない大切な思い出で、今でも自分自身を励まし続けてくれます。

平成元年から市川雄一衆議院議院の秘書になりましたね?
 そうなんです。秘書として13年半働かせていただきました。
 市川さんからは実の父親と同じように厳しくも温かく指導・訓練していただき、 感謝しています。ものの見方や考え方が鋭く、指摘も的確で切れ味抜群、指導の仕方も芸術的でした。いつも緊張感がありましたね。

市川さんの言葉で印象に残っているのは?
 ある人の結婚式のスピーチで、「断じて幸せな家庭を」と力強くおっしゃったのが忘れられません。幸せな家庭を築こうという強い決意が大切なのだなあと思いました。
 私自身に対しては、13年間一度も仕事を休まなかったので、「体が丈夫だな」と言われた事があります。 カミソリと異名をとる市川さんから頭脳でほめられたのなら自慢できるのですが…(笑い)。
 これからも元気印でがんばっていきます。

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街の声
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追分町 杉本さん(70歳)
「臨港中学校卒業で初めての議員挑戦ということで、PTAに関わってきた一人としてうれしい限りです。ぜひ頑張ってほしい」

主婦N・Mさん
「いま政治が信頼を失っているので、現状打破へ向けた目の覚める様なシュートに期待します」

wrote by m-hamada : 2013年01月09日 13:46